こんな日が来るだなんて思いもしなかった。
ゾルディック家の自室にある本棚を整理しながらそう考える。荷物は少ないほうがいいと頭では分かっているのだが、あれもこれもとやっているうちにもう数時間が過ぎてしまっていた。
いっそのこと、全部置いていってしまえばいいんじゃないか。この単純な結論にたどり着くのは、結局それから一時間半後のことだった。
引っ張り出した書物を全てもとの場所に直し、今度はスーツケースを開いた。そこに適当な感じで服をつめていく。もともとそんなに量が多くなかったために、結構なスペースが余ってしまった。どうしよう。暫く考えてから再度本棚をあさる。ようやく見つけ出した表紙に可愛らしい絵が描かれたそれはすっかり色あせてしまっていた。
まだあったんだ、と呟いたところで、人の気配が増えた。

「げ、なんだよイル兄、まだやってんの」
「キルのほうこそ、なんでここにいるのさ。まさか修行逃げ出してきた?」
「ちっげーよ!もう終わったんだよ」

そこにはすっかり背の伸びた弟が不機嫌そうな顔で立っていた。どうやら今日の修行は終わったらしい。父にしごかれたせいか、体のいたるところに絆創膏やら包帯やらが見かけられた。暗殺一家ゾルディック家次期頭首。それが今の彼の肩書きだ。

「ところで、これ覚えてる?」
「何だよその本。随分ぼろっちいじゃん」
「キルがちいさかった頃オレが読んであげた絵本」
「うっそ。何でそんなもん残してんだよ!」
「オレが初めての給料で買ったものだから」
「まじで?」
「まじで」

今度は怪訝そうな顔で手元のそれを伺い始めた弟に、すっとそれを差し出した。少しためらったあとに受け取った彼が、ぱらぱらとページをめくりながらへぇ、だとか、ふーんだとか声を出す。これがあの、泣いてばかりの子供と同じ人間だとは思えなかった。背丈はもちろん、体つきも目つきもすっかり変わってしまっていた。父とそろいの銀髪は少し長くなっていて、そういえば小さい頃はよく切ってやったっけ、と若干の懐かしさを感じた。

「全然覚えてねーよ」
「お前のお気に入りだったんだけどなあ。あ、それあげようか」
「いらねーし!返す!もってけ!」
「昔はあんなに可愛かったのに」
「・・・なぁ、」
「何?」
「ほんとに、出てくのかよ」

ざぁ、とあたたかさを含み始めた風がカーテンを揺らす。冷たい部屋が、ほんの少し空気を変える。

「うん」
「そ、っか」

なんで、と弟の顔は言っていた。別に今までどうり、ここで暮らせばいいじゃないか、と。
また風が吹がふいた。今度はどこか、花の香りを含んだ風だった。

「動かないと、と思ったんだよ」

何が正しいのかと考えていると、動けなくなってしまうことが分かった。間違った答えを恐れるあまりに、選択できなくなってしまう。そして、最終的には考えることを放棄して、その場所に腰を下ろしてしまうのだ。そうやって自分は一体どれだけの時間立ち止まったままでいただろう。そう考え始めた矢先、この弟が家に戻ってきた。その瞬間に確信したんだ。今が、動くときだ、と。
実家を出るというのも、そのとき決めた。跡継ぎについては問題ない。末弟も成長して十分仕事をこなせる。自分が家を出て、仕事の量を減らしても、この家はやっていける。思い立ったが吉日、というが、そのときの自分はまさにそれで、その日開かれた弟の帰宅を祝う食事の席で家を出ることを宣言した。(驚いていなかったは曽祖父と祖父だけで、さすがの父も目を見開いた。けれどそれからのことはあまり思い出したくない)
迷いがなかったといえば嘘になるが、とにかく動かなければという衝動のほうが大きかった。それに、何もこの家に二度と帰れないわけじゃない。二度と家族に会えないわけじゃない。けれど動き出すのはこのときしかない。答えを出すのに時間なんてかかるわけがなかった。

「キル」
「ん?」
「頑張れ」
「なんだよ今更」
「お前はやればできる子だから、頑張れ」
「ん。えっと、その、兄貴も、頑張れ、っつーか、無茶すんな」
「うん」

いつかしたように銀髪をわしゃわしゃ撫でてやっても、いつかのような非難の声は上がらなかった。
その後、スーツケースを一つ引いて、家族をはじめ執事たちにも見送られながら家を出た。相変わらず母は金切り声を出したし、末弟は何か言いたそうな顔をしていたけれど、未練はなかった。(ちなみに次男だけは不在で、家を出てから丁度二分後に、パソコンなら安く売ってやるよとメールが来た)
あぁ、これから本当の人生が始まるのかもしれないと麓の町に向かう途中に考えた。いろいろな柵から、一気に開放されたように感じた。一抹の不安は残るものの、何とかなるよといつだかにあいつが言った言葉をなぞって唱えればやがて気にならなくなった動いている、という今の状況に満足するわけではないけれど、少し自分を誇らしくも思った。動いてる。動いてる。このまま、どこにだっていけそうだ。
街にたどり着いたとき、かなりの距離を歩いたはずだが気分が萎えることはなかった。メールを一通送信してから、今度は街の中心にある公園を目指す。そしてその公園のさらに中心にある噴水の前にあいつはいた。本来なら左腕を包んでいるはずのジャケットが風に煽られパタパタ揺れている。

「お待たせ」
「いいよ、今来たところ」
「オレ、二時間くらい遅れたはずなんだけどなあ。今来たって言うことは、もしオレが遅刻しなかったらお前は遅刻してたってこと?」
「え、なんだい、それ」
「でもまぁ、いいや。髪切ってくれたら許してあげる」
「失恋したの?」
「お前、浮気してるの?」
「そんなわけないよ!でも、もったいないね。折角綺麗なのに」
「いいんだよ。切りたいの」
「キミがそういうなら、仕方がないけど」

じゃあ、とりあえず家探しからはじめよう。彼はそう言って座っていたベンチから立ち上がった。その体からふわりと香水の臭いが昇る。

(春が来るんだ)

彼の隣で空を見上げ、太陽と花のにおいをたっぷりまとった空気をオレは大きく吸い込んで、新しい人生の第一歩を踏み出したのだった。