夏影
(何よりもお前の存在に焦がれてる)
けして想像できない未来じゃなかった。
窓から見る景色は定期的に姿を変えて、めぐる月日の大きさをたびたび俺に見せ付けた。それはじわじわと過去の俺を削り、そして殺していくようでもあった。めぐる季節。めぐる日々。動けずにいる俺がどんどん削り取られて消えていく。そのうちにすべてを忘れるのだろうか。
「お父さま」
古いドアが小さく軋む音がして、同じように小さな声に呼ばれる。窓際に座る俺を見つけてほころぶ表情、おぼつかない足取り、懸命に振り回す腕。それらの半分が自分の遺伝子で作られていると思うと未だにどうにも落ち着かない。命をつないでいる。そんな当たり前の事実に目をそらしたかった。自分の選んだこの人生を見つめられるはずがなかった。
「どうかした?」
「お母さまが、お出かけするって」
「ついていかないの?」
「だって、お母さまのおかいもの、長い」
お父さまがいい。そういって笑う笑顔は彼女のそれとよく似ていた。
あのヒステリックな母親と趣味が似ているのか、やたらと装飾が多くかさのあるドレスを翻しながらいつも歩く彼女は、よく笑う人間だ。良家のお嬢様、といってもこちらの世界の良家なんて縁起でもないものだ、と紹介されたときには辟易したが、実際に会ってみればとても聡明で器量のよい女性で、連れてきた両親がさらに惚れ直すという事態になった。
父は早く隠居したかったみたいだし、溺愛していた三男が家を去ろうとしたことに完全に消沈していた母親もことを早く進めたがっていたので、俺の結婚は見合いの当日に決定した。
久々に帰ってきて、これまた久々に食卓を囲んだ弟の決意から一週間ほどのことだった。
(俺、やっぱり家は継がない。ハンターとして、ゴンと、友達と生きていきたい)
(キル、お前、継がないって、家がどうなると)
(許されないってわかってる。縁を切られてもいい。腕でも脚でもどこでも好きにしていい。けど、俺は)
(本気なの!? あなた、何とか言ってやって頂戴!)
(それがお前の出した結論か)
(うん)
(そうか、ならばそれも、ゾルディックの道なのかもしれないな)
(あなた!)
大騒ぎになった食堂に、決して大きくなかった俺の声は不思議に響いた。
その場にいた全員が驚きで目を丸くする。その中でも一番印象に残ったのは、三番目の弟の今にも泣き出しそうな表情だった。
(イル兄、)
(俺、長男だし。別に問題ないよね)
(でも、)
(そうしたら暗殺一家ゾルディック家は途絶えない。キルも別に、重たく考えなくていいと思うんだけど)
(俺が継ぐよ)
そうした騒ぎのあと我が家にやってきた彼女は、美しい人だった。花が咲くように笑うというのはこのことなのだろうという笑顔を見せる人だった。(あとから変化系の念能力者と聞いて、少し不安になったけれど)
結婚をして、程なくして子供が生まれた。家族は大いに喜んだ。新たな家族を歓迎して争いごとがおきるようなこともなく、絵に描いたような平穏な日々を送っている。俺もまた、そういう日々を送っている。
けれど、そんなもの、ぜんぜん本心じゃないんだと叫び声が聞こえるんだ。
本当は家業を継ぎたいなんて考えてなかった。
本当は結婚なんかしたいと思ってなかった。
本当は子供なんかいなくてよかった。
本当は、
本当は、
あのまま生きていたかった。
ふと今どこで何をしているのだろうなんて女々しいことを考えなくよかった、あのころのままでいたかった。そんなこと関係ないよ、と軽く流せてしまうままでいたかった。それだけのつながりがあったんだ。それだけのつながりがあったのに、どうして、何で。
正直、キルの言葉を聞いたとき、背筋が凍った。
まっすぐな眼差しと、まっすぐな気持ちと、まっすぐな決意。友達と生きるという選択。きらきらと光って見えて、思わず目をそらしてしまいそうだった。後ろ暗い気持ちになってしまったんだ。
そりゃあ、あいしてたよ。あいしてたのは本当だった。
だけどやっぱり、恋した相手が同性だとかとかを考えると、自分がいかに危うい位置にいるのかを自覚してどうしようもなくなってしまう。そんな気持ちを持て余していたころだった。
家業を継ぐと話したとき、彼は驚いたようだった。そして俺は泣かなかった。それほどまでに決心が強かったというわけじゃない。ただ単に、ことの重大さをわかっていなかったんだ。悩んだけれど、それでも彼を失うことの大きさを認識しきれてなかった。自分の中の彼の大きさをこれっぽっちもわかってなかった。
どこまでも馬鹿な俺は命をつないで、過去を殺して、そして正しい人生を手に入れた。
後悔してはいけない。今は守るべきものを両手に抱えて、愛すべきものに囲まれている。今を生きなくちゃならない。過去に思いを馳せてる暇なんてないはずなのに。
「お父さま?」
「……庭に、いこうか」
「うん! ミケとあそびたい!」
「えー、この季節じゃ、暑くない?」
膨れてみせるわが子が愛しい。それと同時に後ろめたい。大丈夫、ちゃんと愛してる。いいわけじみた言葉も何度つぶやいたかわからない。大丈夫、大丈夫、大丈夫。ねぇ、何が大丈夫だって言うの。
過去の俺が完全に死んでしまう日は来るのだろうか。あの頃は、なんて、懐かしむことができる日は来るのだろうか。記憶は風化して、ところどころ美化されて、そのときの感情を若かったな、なんて笑うことができるのだろうか。
今の俺には到底できない。何年も昔に終わった物語なのに、未練がましく続いてしまっているんだ。あいつの声も、笑顔も、髪の柔らかさも、手の形も、全部が鮮明に俺の中にとどまっている。あの頃積もらせた思いはこんなにも大きなものだったのか。おろかな俺は、今更その事実に気づいて途方にくれる。
「まだ暑いね」
「うん」
「ほんと、暑い」
世界はあの頃と少しだって変わっていないのに、どうして俺の隣にあいつがいないんだろう。
変わらない夏の名残がじりじりと俺を責め立てる。つなぐ右手の温かさ。感じる取り残された夏。その全部が、しっかりしろと俺に向かって言っているようだった。
だから俺は生きなくちゃいけない。歩き続けなければならない。わかってるよ、わかっているから。でも、それでも。
うだる暑さに思考が麻痺する。容赦ない日差しに目はくらんで、光の影にお前が見えた。
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