冬明
(明かりをなくして、僕は僕を見失った)



これが僕の日常だ。


とあるホテルの、ごてごてと自己主張の激しくやたらに模様の細かい家具が詰め込まれた一室で、バスルームから漏れ出るシャワーの音を聞きながら僕は思う。
煌びやかなネオン。豪華なんだか安いんだか、はっきりしないホテル。甘ったるい鼻歌と、水の流れる音。そんな映画の小道具のようなものが、僕の生活を形作っていた。
もちろん、日中天空闘技場で大暴れするのも、僕の生活を説明する上でとても大事な事柄だといえるけれども、やっぱり本質というか、僕らしさをわかりやすく表せるのは、日が暮れて、こうしてネオンが輝いているときの行動だろう。ヒソカの特性、第一として夜行性である、なんてね。
我ながらいい生活だ。自分のやりたいことしかしていない。お金なんて腐るほどあるし、もしそれを失ったとしても生きていく方法なんていくらでもこの世には存在する。一番手っ取り早いのはパトロンについてもらうことだろうか。それともカジノ帰りの金持ちを殺して金を奪うことだろうか。まぁ、どっちも後々面倒なことになりそうだから、やろうとは思えない。自由なのが大事なんだ。縛られないことが。


「ヒソカ」


胸焼けを起こしそうにたっぷりと砂糖でコーティングされた声に呼ばれて振り向けば、バスローブを羽織った年増の美女が微笑みかける。ゆったりしたバスローブを着ていても、彼女の豊満なバストと、見事にくびれたウエストのラインは目立っていた。そして今は見えないけれど、つるりと傷ひとつないその背中が、情事の際にはいやらしくしなり、反り返るのを、僕は知っている。


「なんだい?」
「ぼうっとしちゃって、どうしたの?」
「レディのバスタイムはどうしていつも長いんだろうって考えていたんだ。まるでいつも、お預けを食らった犬の気持ちなんだ。情けない顔だったでしょ?」
「そんなことないわ。すごくセクシーで、素敵」


ねぇ、と、彼女の声が蜜のようにねっとりと体に絡みつく。束縛は嫌いなくせに、この声には先に体が反応してしまうのは男の性だろうか。答えるようにまだ濡れたままのウェーブがかったその髪を撫ぜれば、冷たくなった水滴が落ちて、絨毯に染みを作った。
ここのところ、彼女との関係が深い。決まった相手を持つことが極々稀な僕にしては珍しく、定期的に顔を合わせることが多いのだ。出会いのきっかけはいつものとおり、夜の街で声を掛けたんだかかけられたところから始まって、その日にはベッドを共にした。これといって、他と違う始まり方ではない。ただひとつだけ理由にするならば、彼女が、もうしばらく会っていない彼と、どの部分をとっても似ていないところにあるのだと思う。ゆるく波打つ髪も、グラマーな体型も、僕を呼ぶ声も、彼には似ても似つかない。あくまでも、記憶の中の彼と、なわけだけど。

そういえば先日、天空闘技場にゴンがやってきた。ずいぶんと久しぶりに見かけたから、あまりの変化に最初は別人かと疑った。ただあの真っ直ぐな性格や心意気は、容姿とは違い、はじめてであったときから何も変わらず、すぐにゴンだと納得した。隣に、在りし日の家出少年がいるところも、相変わらずだった。


(やぁ、ひさしぶりだね)
(うわ、ヒソカ!)
(そう逃げないでくれよ。おいしそうに熟した果実をわざわざ見に来たってのに)
(こなくていいよ! だから俺嫌だったのに! キルアがきたいって言うからきたんだよ!)
(ばっ、おま、ゴン! 言うなって言ったろ!)
(だってヒソカこわいし!)
(キルアは、ここに何か用があったのかい?)
(あ、いや、ちょっと、気になって)
(何がだい?)


奥歯にものの挟まった言い方をする青年に、僕は問いかける。でも、僕が気がつかないわけないんだ。僕は勘がいいし、大体からして事情を知っていれば、彼が今更何をしに来たかなんて簡単に予想がつく。泳ぐ彼の目を執拗に追いかけて、言ってごらん、と声に出さずに促した。


(あ、兄貴の、ことで)


あぁ、なんて、今わかったととでもいいたげなリアクションには我ながらスタンディングオベーションを送りたい。思ったとおり彼は更にゆがんだ表情を見せる。(事情を知らないゴンは首をかしげていた)
そういう表情は、本当に似てるんだな、と誰かの声がした。


(あぁ、子供も生まれたんだって? こっちの世界じゃちょっとした騒ぎになってたね)
(あのさ、俺、ヒソカに)

(よろしく、伝えておいてね、だいすきなお兄ちゃんに)


傷ついたときな顔までそっくりなんだね。また声が聞こえた。
可哀想に僕の八つ当たりに付き合わされて、真っ暗な海へ沈み込んだような顔をしてみせる彼を気遣い、今まで蚊帳の外だったゴンが食って掛かってきたが、僕はそれをやんわりと受け流した。いつもだったら絶好のチャンスだと喜ぶところなのに。どうしてもそのときは気分が乗らなかったんだ。まるで気の抜けた炭酸だ。アルコール分の飛んだワインだ。何の興味も示せなかった。


ぎしり、と大きく沈み込んだベッドの上で、たわわな乳房を震わす女を抱き伏せながら、僕は思考する。
家業を継ぐ、彼はそう、完備された道路のように、平坦な調子で告げた。家を継いで、結婚もする。その割りに、瞳はひどく揺れていた。それを見て、これは引き止めたら決心を覆す眼だと直感した。もしくは、引き止めてほしいと訴えかけてくるような眼だった。
そして、その眼を見た、僕は。

人を殺せる環境と、抱き潰せる女(場合によっては男だってかまわない)があれば僕は生きていける。毎日がお祭り騒ぎに原色で彩られた街中を、光に群がる虫のように、あっちやこっちにふらふらしていくのが性にあってるはずなんだ。それこそが僕の本質で、揺らぐはずのないものなんだ。

そもそも僕が記憶について思考することがおかしい。僕に記憶という概念は存在しないはずだ。人生を川に喩えた偉い人がいるようだけれど、僕にとっての人生はそんなものじゃない。生きているその一瞬一瞬が楽しくなければ意味がない。そこに快楽がなければいけない。少し先の未来に悦びを見出せれば我慢もできるけれど、過去なんて意味がないじゃないか。
記憶は劣化するものだし、美化されたりもする。すでに失ったもう触れられないものを、どうしてみながそろって大事にしたがるのかが理解できない。そんなものにとらわれて今の楽しみを見逃してはいけないと思うんだけれど。触れられないんじゃ、意味なんてないでしょ?
そう、記憶なんて後悔ばかり生んで、ろくなものにつながりはしない。後悔。後悔?

イアッ、イアッ。レコードを素早くスクラッチしたのに似ている音がする。現在進行形でとろけそうな快感を感じながら、脳は下半身と完全に別行動をとっていた。僕の脳は思考する。
あの時。僕の脳は「思い出」す。
あの時、僕は、逃げ出したのだ。

元来、色恋沙汰において執着心は薄かった。さっきから言っているように、気持ちよくなれればそれでいいから。
そんな僕は彼に出会って、どうしようもなく彼に引き込まれ、どっぷりと執着していった。傍から見れば僕と彼の関係は保護者と被保護者のそれに見えただろう。実際、彼は僕をかなり頼っていた部分があったし、僕も彼を支えている自覚はあった。それが、僕の彼に対する依存度より根深かったどうかは、別問題というだけで。
僕に助けを求める彼の瞳は揺れていて、それを見るのが好きだった。
彼は僕を縛りつけようとはしなかったし、諦めてるから、なんて安い言葉を使うこともなかった。それはやっぱり、一般的に考えてみればおかしな関係だったのかもしれないけれど、でも、僕は彼をないがしろにすることもなくそれは大事に大事に慈しんでいた。いつものように、壊す快感なんて想像することもせず、僕は僕のすべてで彼を愛しく思っていた。そう、思っていた。
彼が、あの日、家業を継ぐといったとき、あの時だって僕は彼を愛していた。つついたらすぐに揺らぐ決心を背負って僕を見つめる彼を想っていた。けれど僕は、彼をひきとめようとはしなかった。
僕らしく、いつもの気まぐれやわがままで引き止めればよかったのだろうか。僕より家が大事? 僕がいなくなってもいいの? 僕は君がいないと嫌なんだけど。かける言葉なんて何十も何百も何千だって思いつく。だって僕は嘘つきだ。それに、僕の言葉であればあのときの彼は何だってよかっただろう。何なら、名前を呼ぶだけでもいい。それだけで彼は僕の手をとり、どこへなり共に消えただろう。
それなのに、僕は、彼を見送った。
なぜって? だって、僕のわがままをぶつけるには、彼があんまりに必死な眼をしていたから。そりゃあ当事者だから当たり前だけれど、僕よりずっと事態の真剣さを受け止めていたように見えた。もし僕があの場でわがままを突き通したら、僕はその真剣な状況に対して後々何らかの責任を負わされることになっただろう。例えば、家を捨てた彼の罪悪感を慰めることだったり、そういうことを。
歓迎できる未来じゃないと感じた。重すぎる、僕はそう思った。だから、微笑んで彼の背中を押した。
愛していたなんて言っておきながら、僕は結局自分のことしか考えなかった。愛する相手がいたって、その人を愛す自分がいなくなったら意味なんてない。僕はそういう男だ。
僕は彼を放棄したんだ。
そして、記憶をもつはずのない僕は、彼の記憶をなるべく遠ざけようとしている。

いつものように絹の滑らかさを持つ背中が大きく反り返り、くたりと丸まるのを見届けて、カーテンの間に手を差し入れた。広がった隙間から差し込む光が、暗い部屋をちらりと照らす。逆上せたように火照る体に、冬の風にさらされたガラスは離れがたい冷たさをもって答える。


「ヒソカ?」
「まだ、暖かくなりそうにないね」
「やだ、まだ足りないの?」
「うん、そうなのかも」


僕の中にはまだ、彼が納まるべき場所がぽっかりと空いていることには気づいていた。当たり前だ。僕は彼を自分の内側に入れて保とうとしていたんだから。けれど僕は、そこまで想っていた相手に、何よりそこまで他人を想ってしまった自分に怖気づいた。
それ以来、僕のうちには空白が生まれて、なんでもないときに差し込む冷気が僕を震え上がらせる。穴埋めをしようと躍起になったって、積もるのは、代わりになるものなんてないという酷くドライな現実だけだ。


「もう少し、お付き合い願えるかな」
「なによ、あなたらしくない。本当に、今日はどうしちゃったの?」
「おセンチな気分なんだ。たまにはいいでしょ」


外気に近い冷たさに冷やされていく手と、再び絡み合って熱を出す下半身のアンバランスさに苛まれる。僕自身は、この体のどこにいて、いったい何を望んでいるのだろう。
カーテンを閉じ、冷え切った手で触れた女の肌は暖かかった。暖められていくにつれて、思考はどんどんと快楽の底へ引きずり込まれゆく。理性も感情も全てを覆いつくす快感の波にさらわれる。光も何も、見えなかった。
そんな僕に、君はあまりにも綺麗過ぎて、直視できるはずもなく。僕はその明かりからまた眼をそらした。