事実、記憶は薄れつつある。 ナイトメア 朝から気が立って仕方がなかった。眼に見えるもの全てを睨みつけて、思わずため息が出てしまう、そんな最悪の気分。 家族と眼をあわせるのも気まずくて、朝からふらりと外へ出た。きっと何かと聡い心配性の彼ならば、自分の異変に気づいてしまう。それは避けたかった。心配させたくなかった。しかし、外に出てから後悔する。 殺したくて仕方がない。 息がつまって、ネクタイを緩めた。酸素が足りない。体からどんどん酸素が抜けていってしまいそうだ。苦しい、苦しい、苦しい。 重ね合わせた指先が、空しげに震える。 「うわぁ、随分と、派手にやったね」 黒味がかかり始めた塊を足で押しのけ、彼が、兎吊木垓輔がやってきた。自分のことを棚に上げて、なんて罰当たりな男なんだろうとあきれ返る。血塗れた指先が気持ち悪い。早く、帰って洗いたい、けれど、どこに、帰るというのだろう。 「今日は、靴、赤いんですね」 「いや、血で染まってしまっただけさ。台無しだよ」 「そうですか」 「双識君」 「どうしました、垓輔さん」 「何かあった?」 「別に」 即答。拒絶。近寄られたくない。そばにいて欲しくない。入ってくるな。こっちを見るな。怖くて怖くて、奥歯が震えてしまいそうだ。自殺志願を、突き刺して、しまいそうだ。触れてくる掌。払う手の甲。捕まれる手首。思い出す、感触。 「や、だ」 「双識君」 「はな、せ・・・はなせ・・・っ」 「双識君」 「やだ、やだ、も、ごめんなさっ・・・」 いろいろな人に見られた。いろいろな人に話しかけられた。いろいろな人に触られた。気持ちが悪かった。気持ちが悪いなんて感覚まで分からなくなりそうなくらい、気持ち悪かった。 手首を捕まれるたびに睨みつけた。その度に殴られた。 なんで、どうして、こわい、にくい、たすけて。 知らない名前を呼べないことを、そのとき初めて知った。 「双識君、落ち着いて」 「や、だぁ・・おれっ、おれっ・・・!」 「あぁ、もう、君は手がかかる子だなぁ」 痛みが走った。 「いっ、たぁ・・・」 「大丈夫?」 「あ、」 「よかったぁ。君、あっちの世界に行っちゃうもんだから、心配したよ。 双識君、面白そうなところに行くときは、きちんと俺を誘ってくれないと。 兎吊木とかいてさみしがりやと読むんだぜ」 「なんで、え、なんでわたしかまれてるんですか」 「だから、名前を呼んでもおかしなことばかり言うんだよ、きみったら。 それで手を出すことにしてみた。殴られるほうが、好みだったかい?」 「そんなまさか、あなたじゃあるまいし」 「痛い?」 「痛いですよ。」 「どれ、あぁ、これは、血が滲んでるねぇ」 「いくらなんでも、指を噛むのは、なしでしょう」 痕になったら、格好悪いじゃないか、と呟くと、兎吊木は猫のように目をほそめて、エンゲージリング代わりってことで、と薬指に舌を這わす。 「ちょっ、と」 「怖い夢でもみたのかな」 「・・・・」 「大丈夫、俺は君の味方だよ。君に、ひどいことなんかしないさ」 もう十分、ひどいじゃないか。 文句と一緒に、もれそうになる息を飲み込んだ。 |