血のにおいに誘われたなんて、そんなまさか殺人鬼じゃあるまいし。
眼前に広がる光景。過去形で人間、現在進行形で死体の彼らを眺めて、あぁこれはちょっと切り口が違うかなぁなんてぼんやりと、兎吊木垓輔は考えていた。
今日の夕飯はどうしよう、くらいの、とても些細な、それでも身体によく馴染んだ感覚で。
たったそれだけの波が呼び寄せたのだろうか、気づいたときには何か背中にかたいものが当たっていて、少しだけ背中につめたいものが走った。
暫くそのままで沈黙が続き、


「Hold up」


一言。
その一言で気温ががた落ちした、そう、きっと5度くらい。張り詰めた糸を思わせる緊迫感が身体に張り付く。少しでも動いたら腕がすっぱり落ちてしまう。そう、本気で思ってしまうくらいに。しかしよくよく考えてみたら、「Hold up」といわれた以上は手を上げなければならないのだろう。ということは、腕が落ちるなんてありえないんじゃないか。いやでも、止まれという意味だったら危ないかもしれない。あぁ、でも、腕くらい、関係ないか。


「英語はあまり好きじゃないよ」


かはは、と背中から笑い声が響く。声に若干幼さが抜け切れていないと感想を覚える。裏の――といっても兎吊木自身も十分裏側の人間なのだが――血なまぐさいやつを、背後に立たれた時点で勝手にイメージしていたものだから、どうも違和感がある。否、確かに生臭い。人殺しが背後にいる。けれど、どこか異質だ。まとう雰囲気、落ち着いた刃先、無垢な笑い声、あぁ、ちょっとした懐かしさを覚えてしまう。その理由は、きっと一つで、


「俺と生き別れた腹違いの兄弟?」
「おっさん余裕だな。殺されちゃうとか、思わねぇの?」
「いやぁ、そういう殺意とかに随分慣れてしまってね。特にそう、零崎の殺気には」
「なーんだよ、ばればれってか」
「君は、ええと、街はそんなに可愛らしい声をしていないから、そうだなぁ、弟君?」
「だったらどうするよ」
「とりあえず、はじめまして」


またも、笑い声が響く。そのあとで、今すっげぇ切れ味いいナイフたててるから、刺さってもアンタきづかねぇかもな、と可笑しそうに言われて、思わず背筋を伸ばした。


「やっぱし、死にたくない?」
「どうだろう。でも、君に恨まれる、じゃない、殺される理由ならなんとなくわかる」
「へー、さっすが大将お墨付きの変態で、天才はちがうな」
「ご用件は?」
「気分」
「あぁ、そう」

すう、と小さく息をする音が聞こえた。リラックスしているその様子がよくわかる。けれど禍々しいオーラは消えることはなく、むしろますます濃くなっている。本当に殺されるんじゃないかと思った。と、同時に、別にそれでもいいのかもしれないと思った。

「あいつは馬鹿だった。ひどく死にたがっていた。知ってるだろう、あいつの得物。バリバリの、その名の通りの、自殺志願だった。常に死にたがっていた。生きることに後ろめたさを感じていた。それはあんたも知るように、あいつは人殺しが好きではなかったからだ。人殺しを疎んでいた。そのくせ殺人鬼を愛していた。殺人鬼を愛していた、それしかなかったからだ。だからあいつはどうしようもなかった。異端だった。その狭間で思いつめたこともあったんだろうよ、無意識の中で。紛う事なき自殺志願、それが、零崎双識だった。それをあんたは、どうした?血塗れ死臭の染み付いたあいつにあんたは何をした。あぁそれでも別に何があったかなんざ聞きたかねぇよ。この場合大事なのは結果だ、そうだろうおっさん。零崎双識は死んだ。もう一度言おう、零崎双識は死んだ。おっと、わざとらしく動くんじゃねぇぜ。俺はあんたが気にくわねぇ、殺せる程度に、だけれどな。話がずれた。そう、零崎双識は死んだよ、この両目の前で真っ赤な海に沈んでいった。馬鹿みたいに赤かった。とんでもなく安らかな顔しやがって、うっかり笑い出す始末だった。俺はあの笑い方が嫌いだ。そうやって笑いながらあいつは頭を垂れて、大きく息を吐いたんだ。あぁもう終わりなんだろうと思って俺は近くによってやった。最後の小言を聞いてやろうとおもってな。そしたらあいつ、なんていったと思う?あんたにわからないはずねぇよなぁ、そうだろう?まずあんたと大将につながりがあるっつうのが驚きだったよ。そんでもって挙句、零崎がもう一人、関わってるって言うじゃねぇか。さすがの俺様もちょいとばかし驚いたよ。二人の零崎に関わって、生きてるやつがいるってんだからなぁ。よっぽどのやつなんだろうと襲ってみたら全く丸腰の素人じゃねぇか。気配もなんもよみゃしねぇ。なぁおっさん、あんた死にたいのか?零崎双識を、俺の兄貴をあんなにしておいて、のこのこ死のうと思ってやがるのか?まったくもってすげぇやつだよ、『垓輔さん』は。あの家族馬鹿を手篭めにしたんだから。俺にもその手腕を教えて欲しいくらいだよ。あぁ、どんどん話がずれていきやがる。そう、そう、零崎双識が死んで、違う、死ぬそのとき、その瞬間だ、問題は、あいつの顔だ、なぁ『垓輔さん』、あんた一体何したっつうんだよ、

兄貴のあんな顔、俺は見たことがなかったよ。

あんな、諦めたような、諦めきれないような、物欲しそうな、後悔しているような、あんな、そうあんな、生きたいと、いい出しそうな顔、俺は一度も、あぁ一度もだ、見たことなかったよ、あの瞬間までだ。そのうえあいつ、最後に俺を見てなんていったと思う。『悪いね、垓輔さん』の、たった二言だ。固有名詞を除けば一言。その一言を一体あいつがどんな思いで言ったと思う兎吊木垓輔。あいつはいき詰った馬鹿野郎だった。自殺志願だった。そんなあいつが、なんであんな顔しやがるんだよ。死ぬことに対して安らかであるべきの、そうであるのが自然な零崎双識は、なんであんな今わの際にに不自然だったんだ。その瞬間までは確実に、あいつは絶望していた。自分の生に、自分の業に、絶望しきっていた。それはある意味安定していた。絶望という定位置に固定されていたはずだった。それがいつの間にか、あんなふうに、なりやがって。」

そう、淡々と、まるで何かを朗読するように棒読みしたあと、殺人鬼は宣告を下す。



「兎吊木垓輔、アンタが零崎双識を、殺したんだ」




色の識別もできないような暗闇の中で、兎吊木は笑い続けた。何がおかしいのか分からないまま、ただこみ上げる衝動に突き動かされて、笑い続けた。そして壊れたレコードのように彼の名前を呼び続け、帰ってくるはずのない返事を散々待った後、


「愛して、いました」


囁くように語り掛けるように、ありったけの感情を詰め込んで――それが何の感情だかは分からないけれど――そう言って、立ち上がった。綺麗に開いた背中の傷から、血液と一緒にくだらないものも流れていって、おもわず、死んでしまいたいと、心の底から願ってしまった。
白もなかった。
赤もなかった。
青もなかった。

ただただ闇ばかりに、抱かれていた。





ある人殺しの願い