なんでときかれたところでそんなこと、
答えられるわけがないと、
男は笑う。





雨音が響く。あわせるように、タイプ音が隣の部屋からかすかに聞こえる。
無機質なその音はリズミカルに時を刻む時計のそれのよう。カーテンはしめきられていて、人工的な光が部屋中の白にゆるく反射して少し目が眩むくらいの空間が作り出されていた。落ち着かない、と双識は手元の本から顔を上げた。この前訪れたときは、シックなソファがぽつりとおいてあって、それがまた息苦しいと思ったが、やはりないよりあるほうが全然ましだ。そう、ここ一ヶ月でこの部屋の家具はめまぐるしい勢いで姿を消している。前回はソファ、前々回はテーブルと椅子、その前はテレビ、と結構大きめの家具がつぎつぎとなくなっている。双識が気づいていないだけかもしれないが、小物もその姿を消しているのかもしれない。家主の機嫌が、悪いのだろうか。そういえばここのところ外出している痕跡を見かけたことがない、と、双識ははたと思いあたった。
ああ、そうか、彼女の機嫌を損ねたのか。
彼の、兎吊木の機嫌が悪くなる理由なんて、それくらいしか思いつかない。拗ねた子供のように不服な顔をしながらディスプレイに向かっているだろう兎吊木の姿を思い浮かべると、ふ、と笑みがこぼれた。いいきみだ、少しはおとなしくなればいい。
暫くするとタイプ音がやみ、小さく、殆ど聞こえないような程小さい、ひた、ひた、と廊下を歩く音が聞こえてきた

「地に足をつけて物事を考えようとは思わないのかい?」
「理想論ばかりの君よりはよっぽど俺のほうが真っ当だよ」
「へぇ」
「きちんと、目は開けているよ。君みたいに目をそらしてばかりじゃない。見るべきものは、見ているよ」

あぁ本当に、機嫌が悪い。いつもならこれくらいの言い合い、のらりくらりとかわしてくるのに。今日はどうも、いちいちつっかかってくるような様子が見受けられる。そしてこの自分も、今日はどうかしているらしい。うちポケットから煙草を取り出し、愛用のジッポで火をつけた。そしてまた別のポケットから携帯用の灰皿を取り出して、とりあえず床に置く。兎吊木を見やると、何かいいたげに表情をゆがめていて、また胸がざわつく。小さく鳴らしてしまいそうになった舌打ちを何とか堪えて、わざとらしいため息に変えた。

「なんですか」
「禁煙」
「この前は、別に気にしないって、いっていたじゃないですか」
「今から禁煙」
「は?」

睨みつけると、指先の煙草をひょいと持っていかれる。あ、と声を上げる暇もなく、その煙草は兎吊木の口元へと持っていかれた。その一連の動作が、兎吊木の表情と妙にあいまって様になっていて、非難の言葉も出なかった。

「煙草、吸うんですか」
「吸わなきゃやってられないときもあるよ」
「ふうん」

適当に相槌を打って、双識は新しい煙草を取り出した。ゆらゆらともえるジッポの先の炎がいやに頼りなく見えて、また小さくため息をついた。馬鹿じゃないか、動揺するだなんて。兎吊木が何をしていて何に気を立てていても、自分に何の関係もないと思えばいいだけの話だというのに。先ほどから、やけに振り回されているような気がする。まぁ、双識が勝手に気にしている節も、あるのだが。

「双識君はさぁ、」
「なに」
「俺のどこが好き?」
「は?」
「だから、俺の、どこが好き?兎吊木垓輔の、何にひかれる?」
「なんでまた」
「聞きたくなったから、っていう理由じゃ駄目かなぁ」
「駄目ですね」
「なんだよ、双識君はケチだなぁ」

白く細い指が、灰を落とす。その仕草を見ながら、もしかしたらこの男は昔煙草を吸う習慣があったんじゃないかと、双識は考えた。そう、この男について知らないことなんて、そこらじゅうに転がっている。確実に、知ってることのほうが少ないんだろう。自分が今見ている兎吊木垓輔という男は、他の人間が知る兎吊木垓輔とは全くの別人なのかもしれない。(実際、軋識が話す兎吊木垓輔とはまた随分、印象が違ったりする)そしてきっと、全てを知りなんてしたら、自分はまともな精神を保てないんじゃないかとも、最近思うようになってきた。だから、別に、これでいいんだ。何の問題もないじゃないか。半ば押さえつける形で思考を終わらせる。兎吊木はカーテンにさえぎられた窓の外を眺めながら、相変わらず不機嫌そうに眉を寄せている。嗚呼、なんて、清清しいほどに、馬鹿らしい。

「そんな理由じゃ軽すぎて話せませんよ」
「え?」
「別に」
「ちょっと、もう一回」
「二度目はねぇよ」

押し問答を続けたあと、

「雨は好きじゃないよ」

そう、兎吊木が笑った。それにつられて双識も少し笑う。先ほどまでの張り詰めた雰囲気はいくらか和らいで、部屋を照らす証明もいくらかやわらかくなった様なきがした。そして双識は静かに煙草を灰皿に押し付ける。音もなく消えたその火に、若干の同情ができるようになっていた。