一目見て、どうせろくなことじゃないとは思ったんだ。
やあ、と笑って片手を挙げた双識を部屋にまねきいれてからかれこれ三十分経つ。その間双識は出されたコーヒーを飲むでもなく、ぼんやりとソファに座っているだけで何の行動も起こさない。
呼んだわけでもないのに双識がやってくるのはこれまでなかったことだから、きっと大事な用があるのだろうとは推理できるが、当の本人がこんな調子だとどうしたらいいのか分からない。
そんな微妙な雰囲気の中で、兎吊木垓輔はただソファに座る零崎双識をただ見つめていた。
しかしながら元々そんなに気が長いほうではない兎吊木がそんな沈黙に長く耐えられるはずもなく、時計の針がもう少し進んだ頃、おもむろに口は開かれた。
「突然やってきて、どうしたっていうのさ」
「・・・」
「双識君?」
「・・・」
「おーい?」
「ええとね、」
「うん」
「アスとキスした」
「・・・へぇ」
「引いた?」
「いや、別に」
羨ましいとか、思わないわけでもないし、というか、羨ましいし。
心の奥で呟いて、すっかり冷めたコーヒーを淹れ直しに立ち上がった。コンロに火をかけるとガスの臭いが鼻をつく。こんなにおいが染み付くんならガス中毒で死ぬ人間はきっとひどい匂いなんだろうと全く関係ないことを考えながら、気を抜けば崩れてしまういつもの表情をどうにかして保つ。
零崎軋識が、彼を、零崎双識を、というのは、別に考えていなかった状況じゃない。むしろ十分に想定していて、それなりの確信も持っていて、しかしながら放って置いた状況なのだ。ああみえてやけに生真面目な軋識のことだから、家族だからと自分を抑え、双識をどうこうするなどしないだろうとたかをくくっていたのだ。
そして、その結果が、今のこれ。
もやもやとやりきれない気持ちを抱えたまま、傷心気味の双識に優しくコーヒーをさしだす。
「それで、君はなんでうちに来たのかな」
「あの、誰かに話せば、すっきりすると思って。でもほら、聞いてくれそうな人なんて、兎吊木さんしか思いつかなくて」
「そうだね、俺、良い人だから」
あんまりに良い人で、吐き気がしそうだ。
吐き気と一緒にコーヒーを飲み下す。よくないものが腹の底に沈んだような気がした。
再び黙り込んだ双識を見て、頭を二三度掻いてから、ダイニングチェアーに座り込む。俯いてしまっているため、双識の表情は伺えない。
別に、兎吊木は思う。双識のことを本気で好いているわけではない、と。
言うまでもなく兎吊木には死線の蒼がいる。彼女の存在が兎吊木の幸福。傍から見たらひどく偏った異常な思想かもしれないが、兎吊木からしてみればそれを異常と呼ぶ人間のほうがよっぽど気の毒でおかしな連中だった。(彼の存在の価値が理解できないだなんて!)
だから突き詰めていくと、双識がどうなろうが、兎吊木には関係がなかった。そもそも、双識に近づいたのも軋識に対する当て付けだったし、それも単なる思い付きだった。
ただの好奇心。ただの興味。それをだらだら持ち続けた所、今のような関係が生まれた。想像通りに躍起になって兎吊木と双識を引き離そうとする軋識の姿は滑稽で、実に愉快だった。ちょっとした満足感も得られた。
(それなのに、なんで今になってこんなに惜しく感じるんだ)
そう、兎吊木はひどく焦っていた。
双識を自分のものにできない、その事実をつきつけられて、動揺しきっていた。遊んでいるうちに、どうも執着心がわいてきてしまったらしい。
もちろん、双識の存在が死線を越えるわけではない。しかし、その次くらいには、置いてもいいかもしれない、そう考えたこともあったのだ。
それを今更軋識に、考えただけで身震いがしそうだ。
けれど事態は刻々と兎吊木の考えるバッドエンドへ向かっていっている。
とられたくなければ、とればいい。
そうも考えるが、どうしてもその気が起きない。双識が軋識に好意を持っているのは明らかなのだ。下手を打って、双識が自分から離れていくのは、避けたい。
結局のところ、素直な気持ちのまま悪役にもなれないのだから、善人ぶるしかない。どんなに濁った気持ちを抱えていようと、だ。
(らしくないにも程があるな)
双識に気づかれないように長く息を吐き、ゆっくりと目を閉じた。
今の双識との関係を保ちたいのならば、いい人でいるしかないということはわかっている。けれど、諦めきれない。
自分はこんなに粘着質な人間だっただろうか。あまりの情けなさに口元が歪んだ。
「ねぇ、双識君」
自分ができる最上級の優しさを声に含ませて双識を呼ぶ。
なんですか、と顔を上げる双識に、今度は最高の笑顔を向けてこう言った。
「俺ともキスしてみるかい?」
ひどく驚いた様子を見せる双識近づき、少し震えている手をとって、ごめんね、と呟いた。
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