「やあ、いらっしゃい」

きぃ、と椅子を回して兎吊木がこちらを向く。久しぶりに見た笑顔は、相変わらずいやらしそうだった。
それなのに安心してしまうのは何故だろう。どうしてこんな気持ちになるのだろう。

「息、あがってるよ」
「急に呼び出したりするから」
「俺に会いたくて急いできたんだろう」

俺にはなんでもお見通しだ。くつりと笑う、いやな男。
部屋があまりにも静かなので、笑い声がいやというほど聞こえる。笑われるのは好きじゃない。情けない気分になるから。
そんなこと、誰にも言わないけれど。
腹いせに、持ってきた袋を床に落とした。
金属音が響く。

「今度は、なんですか?」
「あー、うん。とりあえず、コーヒーでも飲もうか。時間はまだあるよ」

ここに通うようになって何ヶ月になるんだろう。
この男が、就職先が見つかったと厭味たらしく言った後、あいにきてねと付け加えたのはいつだっただろう。
思い出せない。湿度が高かったことはうっすら覚えているのに、それ以上は思い出せない。まあどうでもいいことなのだろう。だから忘れるんだ、人間は。

「それは違うよ」

兎吊木がまた笑う。

「大事なことを忘れられないというのは、全くもって忌々しいことだ。
 更新がきかないじゃないか。名前をつけて保存するのを繰り返していれば、たかが知れているメモリなんてすぐにいっぱいになってしまうよ」

手にマグカップを二つもち、まるで子供相手にしているかのように語り掛ける。
どうも、と小さく呟いてマグカップを受け取った。真っ白で、新品のよう。だけどそうじゃないことを知っている。何故なら以前にも使ったことがあるカップだから。
一口含むと、苦みばしった大人の味がした。
目の前の男はミルクやら砂糖やらを楽しそうに入れている。

「昨日」
「うん?」
「昨日読んだ漫画に、蜂蜜入りの紅茶の話が出てきたんです。」
「おいしそうだね。それで?」
「あなたが好きそうだと思ったから、話してみました」
「そう。」

言葉が見つからない。言葉が出ない。いやな予感がする。要するに、血が騒ぐ。

「俺、死のうと思うんだ」

ほら、
ふと、時が止まった気がした。ありえないのに。
死ぬということは命を捨てるということで、まぎれもなく死ぬということだ。
予感的中。さすが殺し名第三位零崎一賊自殺志願。血のにおいには敏感ということだろうか。
ぐるりと脳の中を思考が一回りする。深呼吸を、一つ。大丈夫、落ち着いている。問題はない。ゆっくりと心のうちで呟く。
コーヒーを啜った。味がいまいち分からなかった。

「それは、彼女のためですか?」
「もちろん。」

そういう兎吊木は満面の笑み。何故こんなに楽しそうなのだろう。死ぬというのに。それはが彼女のためだからだろうか。
ひたり、と頬に掌が触れた。体がこわばる。一瞬、ほんの一瞬だけだけれど、恐怖した。何に対してかは、知りたくもなかった。

「俺が死んだら、迎えにきてね」
「嫌ですよ」
「顔が怖いよ。美人が台無しだ」
「うるさい」
「ねえ、耳をかして」

半ば強引に引き寄せられ、直に音を拾わせられる。くすぐったい感覚。

「え・・・?」
「我ながら、いい計画だとは思わないかい?」
「だから、あんなもの持ってこさせたんですか」
「本当は、それがよかったんだけど」

白い手袋に包まれた指先で、彼は指差す。その先、布越しには自殺志願。

「絶対貸しません」
「そういうと思った」

気持ちいいと思ったのになぁ。絶対に気持ちいいのに。残念そうに、うっすら眉尻を下げて彼は言う。
随分と機嫌がいいようだ。普段の彼は、こんな表情を絶対にしない。もっと厭味で、もっと卑屈で、もっと世界を見下している。今日は、何が彼を、そんなに。

「サドなんですか?」
「君はどう思う?」
「・・・・マゾ」
「じゃあ殴ってみればいいよ。君に殴られて俺が反応したら俺はマゾ。もちろん、確かめるのは君だからね」
「変態」

白い髪の毛を引っ張る。指に馴染むやわらかさが気持ちよかった。殴ってくれてもいいのに、なんて声は聞こえない。
あまり力をこめないで、かといって力を抜きすぎないで。

「痛いですか?」
「いや、いい気持ちだ」
「真性ですね」
「なんとでも」

少し睨むと、嬉しそうに目を細めた。
自分が言うのもどうかと思うが、この男はこの世界の生き物ではないのかもしれない。
この世界に生きるにはあまりにも悪だ。それこそ細菌だ。世界中を侵食する。侵しつくす。
もちろんこの私も、例外じゃない。

「うまくやったら、いやもちろんうまくやるんだけど、家に帰るより前に、君にあいにいってあげるからね。
 あぁでも、家で待っていてくれても構わないよ。君の好きにしてくれ。君がしたいようにすればいい。」

最初の頃はあんなに拒んでいたのに、どうして今はこんなにも口先を掠める彼のそれに、じらされていると感じるのだろう。
どうでもいいと思っていたはずなのに、どうしてこんなにも

「なぁ、双識君」

「泣きそうなな顔をしているぜ」

この男の言葉と行動に振り回されてしまうのだろうと、情けなくなった。