自分が今いる状況すら、忘れてしまいそうな闇だった。
彼は闇の真っ只中にいた。明るさの問題ではない。彼は前後不覚の闇の中にいた。
素足のままの爪先は冷たい床と同化したように感覚が鈍く、何処までも暗い闇の中ではかざしたはずの手のひらさえわからない。
いつだっただろうか、彼がここにつれられてきたのは。いつからだろうか、時間を感じることを放棄したのは。
来る日も来る日も闇の中にいた。窓もないから日の光を浴びることもない。食事を与えられるときさえ光がこの空間にともることはなかった。
そんな彼が自分という形を認識するのは、暗闇の何処からか伸びてくる腕に抵抗する、そのときだけだった。力の入らない体を必死で動かし、襲い掛かる悪意を払い落とそうとするがその細い腕ははあまりにも非力だった。何もなくても軋みかけている体は衝撃を受け悲鳴を上げる。叩きつけられた頭は床にめり込んだんじゃないかと思うほどの衝撃を全身に伝えた。視界だけでなく思考までも黒く染まる。
しかし、地獄は、そこから始まるのだった。
毎度地獄が過ぎ去るたびに彼は自分が人間であることを想った。痛みと嫌悪感と吐き気、それらを感じることのできる自分は人間だと彼は確信し、同時にその事実は彼を絶望のふちまで追い詰めた。そしていつしか、彼は感じ、考えることを放棄した。
その日、といっても日にちの感覚もないが、とりあえずその日、も、彼は闇の中にいた。
ただじっと暗がりの中で息を潜める自分は爬虫類みたいだ、と動きかけた思考を中断する。足音が聞こえた。それも、複数。そんなこと、初めてのことだった。
その足跡を遠くに思いながらふと、彼は自分が今よりも暗く深いところに落ちていく感覚を感じた。けれどそこは、今いるここよりも静かで、安定していて、何よりも安らかだった。この頃彼はよくそこへ向かうようになっていた。
足跡が近くなる、が、やはりそれも彼にとっては遠い場所の出来事だった。話し声まで聞こえてくる。男の声。気味の悪い猫なで声がひとつ、底が見えないような低い声がひとつ、そしてもうひとつはこの場に似つかわしくない女性を思わせる高い声。しかも、多分、子供。
近づく気配を認識するだけの感覚は残っていたが、そのこといついて何か感想を彼が持つことはなかった。音も、声も、聞こえる。しかしそれだけ。
ここにつれてこられた当初思いを馳せた以前の生活も、最早彼にとってはどこかで読んだ物語と同等の価値しかなかった。現実も幻想も彼にとっては問う価値であり、無関係なものとなっていた。
足音が近づく。声が大きくなる。
「これは……」
「なかなか、面白いでしょう」
「――は、これを何の目的で?」
「いやぁ、あの方のお考えるになることには。ただご案内するように指示されただけですので」
「ふん、なるほどな」
男の声が二つ。もともと照明機能がない場所なのだろう、ささやかな明かりを持ちながら辺りをうかがうように歩いていた。けして大きくない低い声は暗がりを這いずり回る住人のそれそのものだった。その現実を、焦点の定まらない瞳と思考でそれそのものと捉えながら、彼は漣も立たない闇に身を漂わせ、ただすべてが過ぎ去るのを待っている。あんな汚いものじゃない、光が差すのを、一抹の希望を持って、それを無駄だと知りながらも。
「――」
声が聞こえた。子供の声。
聞こえたのは声だったが、彼の目にそれは水の中から見る光のようなヴィジョンとして認識された。ゆらゆらと、突き刺すような暴力性を持たない光。思わず手を伸ばしたくなる、そんな。
彼を突き動かしたのは紛れもなく彼自身の意思だった。すべてを奪い取られた彼の見せた久々の意思は、痣だらけで棒のようになってしまった細腕を、しっかりと格子の外にまで伸ばさせた。声のするほうへ。子供が目隠しをしてする遊びのように。
そして彼の指先にふれたものは、間違いなく人間だった。
「……へぇ」
「ァ、」
「俺を選ぶとは、お目が高いね」
高い、女の子のような声がひっそりと響いた。下卑た男たちの声に覆われてはいたが、彼にはそれが唯一の声だった。
何? と声とともに気配が近くなる。悪意を持たない人間の体温に戸惑い、彼は、本当に久しぶりに言葉を捜した。ここに来てから必要があるわけなく捨てた言葉を彼は必死で探す。闇に使った思考を夢中に、かき集めるようにして探し回った。そして、出てきた彼の言葉は、
「う、あ、あ」
「うん?」
「た、すけ、て」
その言葉を聞いた少女、否、少年は暗闇の中で、天使のように整った顔をゆがませる。天使には程遠く、むしろ童話の猫のような表情だった。それをみることのできる人間はいるわけがなかったが。
「そうか、うん。気に入ったよ」
「たす、け」
「うんうんうん、確かに聞いた。だけどね、そこまでできるだけの力を俺は持ってないんだよ。今は君を出してあげられない。だけど、君がそれをできるようなお手伝いをしてあげる。俺が導いてあげる」
「ア、ァ」
「いいかい、ちゃーんとおぼえておくんだよ、君に外を教えるのは俺。いい? 兎吊木垓輔だからね」
そして気配は去っていった。
極限状態の彼がその会話の意味を理解することも反芻することもなかったが、それでも彼の中に声はとどまった。うつりぎ、がいすけ。唯一掴み取ったその名を彼は暗闇に沈み込んだ胸のうちで繰り返す。
近いうちに彼を飲み込む大きすぎる変化に流されその記憶を手放すことになるのだが、それでも今はただ、唯一この世界に自身が望むものを押さえつけるような必死さで彼は抱いていた。
一方同じ暗がりの中、ささやくように男が少年へ声を寄せる。
「何か気になるものでもあったか?」
「いえただ、こんなことをする人間の気持ちも理解できるような気がしまして」
「お前は、」
「何か?」
「いやいい、そろそろ行くぞ、長居は無用だ」
「あぁそうだ、お父さま、ひとつお願いしたいことがあるのですが――」
闇の中、邪気のない声とは裏腹に口の端を吊り上げる少年の心のうちは、本人以外誰も知らない。
光は途絶えまた静寂が支配する空間が戻る。
虚ろな世界に飲み込まれる彼と虚を抱える少年が次に互いを見えるのは光の下か、それとも、
暗がりの隣人
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