08 幼い気持ち
仕事をキャンセルして休養を始めてから、もう一ヶ月近くたった。
怪我はすっかり回復したし、身体の調子も申し分ない。はずなのだが、頭がどうしても重い。もっと言えば胃の辺りも落ち着かない。こんなに感情が上下に変動したのは、随分と久しぶりだったからだろう。
そろそろ仕事を再開しようかと思っていたとき、父に呼び出された。ますます胃が重くなる。こんな情緒不安定な状態であの人に会ったなら、卒倒してしまうかもしれない。気分が優れない、と断ろうとしたのだが、向こうは頑として聞かない。仕方なく床にへばりついているかのように渋る足を引きずりながら、父の私室の扉を叩いた。
「入れ」
低く、渋みの聞いた声がドア越しでもはっきり聞こえる。この声が、子供の頃からずっと苦手だった。特に仕事終わりや、気が滅入ってるとき。薄情な話だが、あの声を聞くだけで足が竦んでしまう。それは今回も例外でなく、自然と背筋を正してから、重たいドアを押す。
暗殺一家ゾルディック家の主は、部屋の中央にゆったりとした様子で腰掛け、こちらを見据えていた。
ずん、と、息が苦しくなる。なるべく早く終わらせたい。
それらを無表情で覆い隠し、いたって普通の様子を繕って、何?と尋ねた。
「怪我はどうだ」
「御蔭様で、もうこの通り全快したよ」
「そうか」
沈黙。探るように、父の目が動く。静寂が痛い。居心地が悪い。
「最近、どうだ」
「え?」
「何かあったか?」
尋ねられて、一瞬、あの奇妙な奇術師が浮かんだ。イルミ、と男のものにしては変に高いあの声が頭の中で木霊する。それを何とか振り払い、別に何も、と返した。
駄目だ、まだ話し始めて数分だが、これではいつか言わなくてもいいことまで話してしまう。自分のことだけならまだしも、ヒソカのことでも口走ったら大変だ。彼について話すとき、自分がどんな表情になるか想像できない。けれど、この人に見せるわけにはいかない顔になることだけは、確かだ。
「キルアがこの前帰って来ただろう。あの時、少し話をした」
「へぇ、珍しいね」
「あぁ、初めてみたいなもんだったが、中々楽しかった」
「そう、それは、良かったね」
父の意図がさっぱり読めない。いつの間にか強く握り締めていた掌は、じっとりと汗ばんでいる。怯えて警戒してる今の自分は、まるで手負いの獣のようだと思ったら、不意にとても情けなくなってしまった。
「そのとき気がついた。お前とも、ろくに話をしていないとな。もう二十余年の付き合いだというのに、だ」
「え・・・」
「少し話をしよう、イルミ」
父の言葉に、心底驚いた。まさかこの男にそんなことを言い出されるとは思っていなかった。いつだって父は自分の前に立ちふさがる山だった。雲よりも高くそびえる山。その貫禄に恐れ、しかしその麓で安息を得る。そんなものが話しかけてくるだなんて、一体誰が予想するだろう。
この一ヶ月、様々な思考が詰め込まれて、飽和状態だった頭はパンクする寸前だ。もう、全く余裕がない。驚きと、恐怖と、憂鬱に、全てが染まる。
「話なんて、」
「お前、仕事はどうする?」
「それなら、もう、再開しようかなって」
「いいのか?」
「え?」
「嫌だろう、仕事は」
「っ」
「昔から、そうだったからな」
どうして、どうしてどうしてどうしてどうしてどうして!!
こんなにも簡単に、必死で隠してきた部分を暴くのだろう。この人だからか?それとも、オレが分かりやすかったから?態度に出ていた?それじゃあ、どうして、今まで、
目の前が真っ白になっていく。上手く呼吸が出来ない。父の顔を、直視できないで、視線をそらしてしまう。
それを肯定と受け取ったのか、父は少し考える素振りを見せ、
「そうか、お前はまだ、あの頃のままなんだな」
ふ、と自嘲するような笑みを浮かべる。背筋がサアっと冷えた。気づけば指先も少し震えている。
「やはりあいつの言うとおりもう暫く仕事を休むか」
「親、父」
「なんだ」
「オレは、出来損ない・・・?」
どっどっどっ、と心臓の鼓動がやけに大きく聞こえて五月蝿い。いっそ止まってしまえばいいと、切に願った。
ごめんなさい、と、壊れたレコードのように繰り返す。自分が何を言っているか自覚なんてしていなかった。ただ、捨てられたらどうしようと、怖くて、怖くて。だってこんなに我慢して今まで生きていたのに。そこまでして必要とされたかったのに。もう、どうすれば。
「確かにお前は、優しすぎる。殺し屋に向いているとはいえないな」
「じゃあ、やっぱり、」
「けれど、それが悪いことだとは思わん。お前は、オレの道具でもなければ人形でもない」
ゆっくりと父は立ち上がり、近づいてくる。肩に、手が置かれる。大きく、逞しい、自分のそれには似ても似つかぬ、男の手だった。
びくり、と肩を震わせ、俯くわが子を見ながら、父はゆっくりと口を開く。
「胸を張れ、お前は俺の自慢の息子だ」
互いの表情を確認することなく、父は扉へと足を進める。暫くすると、ぎい、と重い扉が軋んだ音を立てた。
「、父さん」
「お前の好きなようにすればいい。けれどあまり無茶はするな。むやみに親に心配をかけるものじゃないからな」
まぁ、オレも言えたもんじゃないが、そう父は少し笑った後、静かに扉を閉めた。
冷たい石壁の部屋の中、ただただ立ちすくむ。しかし冷たさも圧迫感も、もう感じなかった。
「ありが、とう」
震えきった自分の声が静寂の中に響き渡る。
今度は、面と向かって、言えればいいと思った。
否、いつか、絶対。
(あぁ、あなたの息子で、本当に良かった)
|