09 涙の味
自室に戻って、一番最初に脳裏に浮かんだのは彼のことだった。
結局、自分に残る最後のしがらみは彼だったということか。なんとなく予想していたことだったけれど、改めて突きつけられると、頭が痛い。
仕事のこと、親のこと、兄弟のこと、そして自分のこと。
今まで自分の中でくすぶり続けてきたことは、この一ヶ月で大分見通しがついたように思えた。あとはこれから、少しずつ、自分がいいようにしていけばいい。上手くやれる自信はなかった。それでも、やってみようと思えた。なのに、そう、少し気が軽くなったのも束の間で、今度は彼のことが肩に重く圧し掛かる。
彼は何も悪くないのに、こんな風に考えてしまう自分が酷く悲しくなった。そう、彼は何も悪くない。悪いのは、色々なことを先延ばしに誤魔化してきた自分なのだ。わかっている、わかってはいる、けれど、
(オレは、ヒソカを、何だと思っているんだろう)
避け続けてきた問いを、あえて自らに。声に出さず自問するたび、頭と胃が重くなる。けれど、駄目だ、逃げるな、考えろ。考えろ。考えろ。
(ひそかは、おれの、なに)
ゆっくりと、自分の中に眠るヒソカの記憶を探り出す。
初めて会ったときのこと(とっさに偽名を教えたオレに、あいつは笑って、本当の名前は後で教えてと言った)
電話をかけてきたときのこと(仕事終わりで沈んでいたのに、優しい声に、馬鹿みたいに気が楽になった)
街を歩いたこと(まともな格好をしたあいつはまるで別人で、目のやり場に困ってしまった)
家に行ったこと(いつだかに、あいつが手作りしたケーキはとても美味しかった)
一緒に寝たこと(たまに触れる指先があつくてあつくて仕方がなかった)
それから、
それから、
ぽつり、ぽつりと、砂粒を拾い上げるように思い出していくと、きりきりと苦しくなった。頭の中があいつのことで一杯になる。
あれだけ考えろと言い聞かせたはずなのに、気づけばろくに物も持たないで、部屋を飛び出していていた。
着くときまでに、気持ちの整理はつければいい。今はとにかく、動きたい。いてもたってもいられない。体の中で暴れる衝動に突き動かされて、走り出す一歩手前の速さで長い廊下を歩き続ける。
角を曲がろうとしたそのとき、母に遭遇した。彼女は何か言いたげに唇を動かしたが、尋常じゃないオレの様子に驚いたのだろう、何も言えずに、立ち止まった。出かけてくる、とだけ告げると、同じように止めていた足を動かした。
「イルミ!」
背後から、母が呼ぶ。
遅くなると思うけど、心配しないで。振り返ってそういうと、母の表情は遠い記憶の中でしか見たことがなかった、優しいそれへと変わってゆく。いってらっしゃい。いってきます。そんなふうに、普通の親子の会話をして、その場を去った。
また暫く歩いて、もう長い間使っていなかった、慣れ親しんだ私用船に飛び乗る。行き先を設定しようとして、慌ててクロロに電話をかけた。
「ヒソカの居場所?ちょっと待ってろ、今調べさせる」
十分ほど待っていると、今は家にいるらしい、と返ってきた。礼を言うと、クロロは、今度奢れ、とどこか照れた声色でぶつぶつ言った。じゃあ、また。あぁ、また今度。そんなふうに、普通の友達のように言葉を交わして電話を切った。
操縦席で行き先を指定する。あいつの家。あいつの国。この船なら二時間足らずで最寄の空港に到着するだろう。いつも手を引かれて案内されていたから自信はないが、多分、大丈夫。ゆっくりと船は動き出す。
そこでやっと一息ついて、思考を再開した。が、胃が浮ついてどうしても思考がまとまらない。彼の声が、表情が、体温が、脳を覆ってしまっているようだ。どうしよう、どうしよう。そう悶々と考えているうちに、船はあっけなく彼の住んでいる国に到着した。
空港から、拾ったタクシーで彼の住む街まで移動する。その間もやはり、頭は上手くまわらない。段々と見覚えのある風景に変わっていく車窓を眺めていると、着きましたよ、と声をかけられはっとした。上の空のまま料金を払い、あいつの街を、歩き出す。
(あそこで紅茶を飲んだ。あそこで野菜を買った。あそこでグラスを買って、あそこでワインを買った)
あぁ、一ヶ月しか離れていなかったのに、記憶が溢れ出す。ほのかに香る潮風の中、うろうろと見たことがあるようなないような道を辿り続ける。人の多さに、何度か眩暈がした。それでも石畳の道を歩き続ける。少しずつでも、あいつに近づいていればいい。ただ必死に、そう願いながら。
一時間ほどさ迷い歩くと、なんとは彼の家を見つけることが出来た。記憶と違わず周囲は薄暗く、静まり返っていた。
無意識のように呼び鈴に手をかけ、止まる。
(彼はいるだろうか。いたとしても、受け入れてくれるだろうか。だって一ヶ月も何の連絡も無しで、もしかしたら、愛想をつかされて、他の所にでも行っているんじゃないのだろうか。だって、相手はあいつだ。そうじゃないほうが、おかしいに決まっている。もし、いなかったら。もし、嫌われていたら)
今まで怠けていた脳が、憎たらしいほどにくるくると回り、俺を苦しめる。指先がかたかたと震え始めた。
(違う、そうじゃない、向き合え、もし、何が起きても、受け入れろ、逃げるな、逃げるな)
逃げるな。そう何度か繰り返し、呼び鈴を鳴らした。
沈黙。
もう頭の中はパニック状態で、逃げ出したい気持ちと、この場にとどまろうとする意地が、小さな戦争でも始めたかのようだ。心臓が痛いくらいに拍動する。指先の震えはとまるどころか酷くなる。
悪夢のように、静寂に包まれた時は永かった。
そして、古びたドアは、軋んだ音を立てながら、ゆっくりと内側に開かれる。
「イルミ・・・?」
あいつの、声がする。夢じゃないかと思ったが、俯いていた顔を上げると、そこには確かに、彼がいて。息が苦しい。心臓が痛い。言葉が、上手く出てこない。けれど、一言、どうしても言いたい言葉が、
「ごめん、なさい・・・っ」
あぁきっと今オレは酷く情けない顔をしているんだろう。そう考えると、前を向いてなんていられなかった。絞り出した声はまるで何日も水分を補給していなかったかように枯れているし、無表情に徹する余裕もどこにもない。
そんなオレに見かねたのか、彼はその大きな掌をオレの頬に添えて、ゆっくりと視線を上げさせる。かちりと、パズルのピースが合うように、視線が合った。
そして、彼は、ヒソカは、
「おかえり、イルミ」
甘く優しい、極上の笑顔を浮かべて、そう言った。
「ただ、いま」
言うが早いが、しなだれかかる様にヒソカに縋りついてオレは泣いた。自分がいい年をした男だとか、ここがヒソカの家の前だとか、今がもう深夜に近い時間だとか、そんなもの一切気にせず、わんわん泣いた。
待っていてくれた。迎えてくれた。そのことが、嬉しくて、嬉しくて、それでも勝手に涙は溢れ出て。
結局、困ったヒソカがとりあえずオレを家に入れても、涙は止まることはなかった。
ごめんなさい、でも、ほんとうに、ありがとう。
(嬉しいときも涙が出ることを、そのとき初めて知った)
|