10 嬉しい気持ち


はい、とヒソカはマグカップを差し出し、ソファに座るオレの隣に自らも座る。ありがとう、と返すと、彼は少しだけ驚いたような顔をしてから、どういたしまして、とまるで子供相手に話しかけるように言った。

「それで、この一ヶ月何してたんだい?」
「あ、ええと、ちょっと、怪我、して」
「怪我、って、大丈夫なの?もう痛くない?」
「うん、もう結構前から、平気」
「連絡くれればよかったのに」
「うん、・・・ごめん」

マグカップの中身はココアだった。一口飲むと、よく馴染んだ甘ったるい味が口の中に広がる。ヒソカの、ココア。どこの喫茶店で飲むのよりも、自分で作るのよりも、これが一番美味しい。飲んでいると、その甘さと温かさに包み込まれているような気持ちになって、とても安心した。ちらりと隣を伺うと、彼は何かを考えているような微妙な顔をしながら何か飲んでいた。きっとヒソカのマグカップの中はブラックコーヒー。何がいいのか全く理解できないが、ヒソカはそれを好んだ。結構豆にも拘ってるんだ、と前に話していたような気がする。このことを誰か他に知っている人間はいるのだろうか。有り得ないと思いながらも、クロロも知らないことだったらいいと、ふと思った。
窓の外から肌寒いくらいの風と、車か何かのエンジン音が聞こえる。月は半分も出ていなくて、星明りのほうが綺麗に見えた。
なんとか落ち着いてきた思考を整理しながら、言葉を探す。伝えたいことはあるはずなのに、それが自分の中で乱雑に転がっていて、上手く整理できない。それをもどかしくも苛立たしくも思いながら、悶々とココアを飲み続ける。カップの中身がすっかり空になってしまう頃、ええと、と間の抜けた自分の声が沈黙を破った。

「ヒソカに、話したいことが、ある」
「・・・何?」

ゆっくりでいいよ、というヒソカの声は相変わらず優しかった。そのことに安堵感を覚えながら、目線を空のマグカップに落とし、我ながら気が遠くなるようなゆっくりさで言葉を続ける。

「一ヶ月の間、色々、考えたんだ。たくさんありすぎて、いまだに自分でも、消化しきれてない。腹の中に、ごろごろたまってる感じ。けど、大体、見通しはたって、悲しかったこととか、嫌だったこととか、嬉しいこととか、そういうの、少しずつ、受け入れられようになって。そうしたら、どうしようもなく、お前に会いたくなって。分からないことばっかりになって、それが嫌で、怖くて、オレ、ヒソカから逃げたのに。それでも、会いたくて、気づけば、家を、飛び出してた。オレ、今、迷惑だと思ってなかったら、いいな、とか、結構図々しいこと考えてる。あのね、これでも、お前の顔見るまで、ずっと不安だった。いなかったら、とか、追いかえされたりしたら、とか、色々考えた。でもヒソカは笑ってくれたから、ほっとしたよ。うん、オレ、お前が笑ってると、すごい、安心する。あー、何か、違う、こういうこといいたいんじゃ、なくて」

オレが言葉に詰まったのを見計らって、ヒソカはまたココアを出してくれた。いれたてでまだ熱いそれを息を吹きかけて冷ましているうちに、ヒソカが口を開く。

「団長、クロロには、連絡いれてたんだよね」
「うん、お前が睨んだ通りだよ。俺がばらさないでって頼んだだけだから、あんまりいじめてやらないでね」
「ちょっと自信ないかも」

だって、ずるいじゃないか、そうそっぽを向いて眉をひそめる姿は子供じみていてどこか可愛らしくもあった。彼のそういう反応はあまり見たことがなかったから、なんだか得をしたような気になる。

「ヒソカといると、ほっとするんだけど、怖くなるんだ。自分が、自分じゃなくなってくような気分になって、それがすごく怖かったんだ」
「うん」
「でも、ずっと、一ヶ月、ヒソカのことばっかり頭に浮かんで、も、馬鹿みたいに、何考えてもお前ばっかりで、なんか変になったみたいなんだよね」

オレの言葉に、困ったような顔を見せる彼を見て、息を一つ、大きく吸って、ゆっくり吐く。ねぇ、ヒソカ、今日初めて、自分から目を合わせて、問いかける。

「オレ、これから、今までよりもずっと不安定になると思うし、こんなふうに、無表情だし、感情とか、上手く出せないし、ヒソカに、何してあげたらいいか、わからない」


「それでもヒソカは、俺のこと、好き?こんなぼろぼろのオレでも、あいしてくれる?」


言い切ってしまうと、胸がきりきりと痛んだ。首を振られたら、と思うと、怖くて仕方なかった。言ったそばから撤回できてしまえばどんなに楽だろう。けれど、それをしてしまったら、今までと何の変わりもなくなってしまう。ずるずるとヒソカに頼って、またそれに耐え切れなくなって逃げ出してしまう。失いたくない、と強く思った。そのためになら、自分を一度分解してしまう不安も、甘んじて受け入れようと思えた。あぁ、人はこの感情を、なんと呼ぶのだろう。
永い長い沈黙の中、不安と、得体の知れない感情ばかりが膨れ上がる。体中から悲鳴が洩れ出てしまいそうになりながらも、必死で、ヒソカの瞳を見つめ続けた。

「イルミは、ボクのことどう思ってるの?友達?それとも他人?」
「オレ、は、ヒソカがいれば、それで、いい。ヒソカがいないのは、嫌だ」
「うん、ボクも、同じ」


「だいすきだよ、イルミ」


あぁ、もう、どうしよう、また涙が零れてしまう。ヒソカ、ヒソカ、と、意味もなく彼の名前を呼び続ければ、あやす様にして次々溢れる涙を拭ってくれる。ヒソカの指が、声が、表情が、体温が、全部が全部、心地いい。
やっと両思いだね、そう言うヒソカは満面の、オレが大好きな、あの笑みで、心臓が締め付けられた。抱き寄せられれば、もう頭が真っ白になって、何も分からなくなって、いつまでも涙が止まらない。
何が、というわけではないけれど、もう少し、頑張れるような気がした。
人が、何を幸せと呼ぶかは分からない。けれど、俺は、この気持ちを幸せと呼んであげたい。それに、ヒソカの腕に抱かれながら、幸せ、と呟くと、彼は笑って、そうだね、といったので、あながち間違いではないと思う。
気がつけばエンジン音も風の音も、何も聞こえなくなっていて、この世界で、二人っきりになってしまったようだった。

わずかに感じる潮の匂いも、星の明るさも、歩き回ってむくんだ足も、すっかり冷めたココアも、ほのかに香る彼のコーヒーも、そして何よりこのあたたかさを、オレは一生、忘れない。


(ねぇ、ヒソカ、オレも、おまえがだいすきだよ)