「イルミー?」

しん、とした部屋に声が響く。家具の少ない真っ白な部屋は寒気がするほど静まり返っていて、片手に持ったレジ袋のがさがさという音がやけに耳に障った。

「イルミー、プリン買ってきたぞー」

リビングに進むとダイニングテーブルがある。テーブルの上には新聞紙やらマグカップやらグラスやらが散乱していて、荒れ放題だった、としたら、どれだけ救われただろう。実際には、テーブルには真っ白なテーブルクロスがかけてあり、皺一つない完璧な姿で俺を迎えた。もちろんリビングに埃が積もっていることもなく、これもまた、完璧だった。それをなるべく目に入れないように袋を置けば、波のような皺がよる。それに多少の安堵感を覚えながら目を閉じる。思い出すのは鍋から上がる湯気と、ケーキの焼ける香りと、あいつの、声。彼を呼ぶ、あいつの。
その残像を振り切るように彼を探す。鍵がかかっていなかったから、きっと帰ってきてはいる。それなら、と向かった彼の寝室の前で、思わず足が止まってしまった。それでも入らないわけにはいかない、そう思い直して、ノブを回し、ドアを、開けると、

(血のにおい・・・)

一番光のさす部屋が、彼の寝室だった。真っ白な壁、真っ白なシーツ。この部屋にまだあいつがやってきていたころは、こんなに無機質な部屋じゃなかったのに。白がベースなのは変わっていないが、あのころは、もっと、安らげるような、柔らかな雰囲気が充満してて、清潔感とは、そういうのがあって、こんな、こんな冷たくはなかったのに。その冷たい部屋の真ん中の、一人用にしては大きなベッドの上で、血のにおいを放ちながら彼は眠っていた。

「イルミ、」

触れた頬は部屋と同じように冷たく、咄嗟に呼吸を確認する。かすかに繰り返されるそれにほっと胸をなでおろす。
こうしている彼は背筋が凍るほど綺麗だ。まるで全部作り物のようで、さっき確認したばかりの呼吸も疑わしくなる。そう思うたび、この人が、イルミが、好きなんだと自覚する。殺し屋で、甘いものが好きで、優しくて、綺麗なこの人が。

「イル、」

ぶわ、とシーツが翻ったかと思うと同時に視界が反転した。さすが暗殺者だな、そうのんきなことを考えているうちに真っ黒な瞳にのぞきこまれる。宝石のように黒い瞳は今はどこか、濁りが混じっているようだった。

「クロロ」

あぁ、この声だ。この声がいけない。こうして名前を呼ばれると、体がこわばって、頭の動きも鈍くなって、ただただ彼のことしか考えられなくなる。胸が詰まって、息が苦しくて、もう、涙が出てしまいそうだ。

「クロロ」

するりと彼の細くて華奢な指が服の中に滑り込んできて思わず体がはねる。同時に首筋に唇を落とされて、たまらなくなった俺は力いっぱい彼の肩を突き飛ばした。
は、は、と忘れていたように呼吸を再開した俺の荒い息遣いだけが聞こえる。彼は突き飛ばされた体勢のまま動こうともせず、項垂れている所為で表情は読み取れない。

「お、れ、イルミのこと、好きだよ」
「じゃあ、」
「でも、今のイルミは、俺の好きなイルミじゃ、ない」

あいつがいなくなってから、おかしいよ。

彼の肩がぴくりと揺れる。それを境に震えは続いて、だんだん嗚咽が混じり始めた。今さっきの出来事も忘れて彼に近づけば、今度はその細い腕が背に回され、強く強く抱きしめられる。体温が低いはずの彼から伝わる暖かさがささくれ立った気持ちに沁みて、ずきりと鈍く胸が痛んだ。この期に及んでいまだに残る自制心がもしなければ、こんなにもつらくないのだろうか。でもそうなってしまったら、もう二度と殺し屋で、甘いものが好きで、優しくて、綺麗な彼と、その彼が好きな自分には戻れなくなってしまう。きっと今より暗いところで、人殺しも、盗賊も、そんなのも塗り潰すほどの闇にはまってしまう。日に日に薄くなっていく体を抱きしめ返すこともできないまま、あの日独りで姿を消した男を想う。

(どうして置いていったんだ。こうなることは目に見えていたのに)

ただ白いだけの世界で、灯台もコンパスも失くしてしまって、飢えと渇きと不安に飲み込まれていきそうだった



  「遭難」